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京表具の歴史


京の歴史は,西暦794年の平安遷都以来,さまざまな時代において萌芽した日本の美と文化を育んで今日に至ります。

そのような伝統的な美と文化の継承に不可欠であるのが,大切な書や絵画を保存し装飾することを使命とする表具師の存在であり,京表具という伝統の技そのものが日本文化の時代の証言者である,と言っても過言ではありません。

そんな京表具の歴史と変遷を,時代ごとに区分してご紹介いたします。各時代の項目をクリックしていただきますと,右側にテキストがあらわれます。

1. 表具のあけぼの

1. 表具のあけぼの


表装の一例(宇佐美修徳堂所蔵)


京表具の歴史は,長らく京都が日本の都であったことから,即ち,日本における表具の歴史といえます。

表具の歴史をさらに遡りますと,その発祥は中国。蔡倫(さいりん)による製紙法(105)の改良により,紙が普及する3~6世紀頃,「書画を挂(か)け拝する」という意味の『挂軸』という言葉が出現します。

中国における表具は,竪巻の挂軸として王家の書画を表装することに始まり,隋・唐時代には仏教の隆盛に伴い,仏典・経典の漢訳や書字が国家の事業として行われると,横巻の経巻が出現します。

いずれにせよ,書画の保護と装飾を目的とすることに相違なく,書画を裏打ちし,表装し,軸と八双竹をつけ,軽くて移動や保存に便利な軸装の技法です。

 そんな表具の技法が。仏教の伝来とともに日本へ伝わったのは,六世紀の初頭。その証左として,例えば,大宝律令(701)には「図書寮を設け、図書、経籍をはじめ、校写・装溝(そうこう)・筆墨のことを掌(つかさど)らしむ」とあります。装とは料紙の裁断や継ぐことを意味し,潢とは料紙を染める(防虫のために黄檗な樹皮の汁で紙を染める方法で唐において始まった)ことを意味します。

聖武天皇(724―749)在位の頃には,朝廷に写経司(のちの写経所)が設けられ,経師(写経生)・校生(校正)・装潢手・題師・瑩生などの職が置かれました。

なかでも装潢手は,料紙を調えるだけでなく,界線を引き,軸・表紙・紐を装し経典に仕立てる役職で,表具師の前身といえます。経師と装潢手は経巻製作の中心的な役割を担い,他職にくらべて最高の給付を受けていましたが,平安時代に入ると,学問本位の南都仏教に代わり,加持祈祷や修行本位の天台・真言の密教が台頭します。そのために国家事業としての写経は衰退し,写経所は廃止されました。

そうして官職を失った写経所の職人は,民間へと技を発揮する道を求めていきます。

2. 仏画の表装と経師

2. 仏画の表装と経師

平安時代に入ると,唐から密教を通じて多くの仏画や曼荼羅がもたらされ,貴族の間で図絵供養が盛んに行われました。ちなみに,当時の仏画の表装は,唐様の綾に螺鈿の軸という組み合わせが多く,
仏画そのものは,寺院の本堂や仏殿の一室の中央や壁面に掛けられていました。その後,宮廷や貴族の邸宅でも修法(祈祷)が行われるようになると,そのための調度として仏台が用いられるようになりました。

仏台の大きさは一定しておらず,掛物の数に合わせて二台,三台と立てられたようです。仏台を用いない場合は,母屋に御簾を垂らしてこれに掛けていました。また『西行物語絵』には,母屋際の障子に掛けた図があり,掛物は必ずしも壁面に掛けるとはきまっていなかったようです。

さて『源氏物語』の「絵合わせ」については,竹取物語に「紙屋紙に唐の綺を陪して(薄絹を裏打ちして)赤紫の表紙、紫檀の軸」といった表装が描かれています。ちなみに,「絵合わせ」は絵や物語,文章だけでなく表装も優劣の判定基準として競い合われました。

末法思想の影響で浄土信仰が流行した平安中期には,再び写経の興隆が見られ,貴族は法華教の経巻に華美を競いました。そうした流れから,絵画・書・工芸の枠をつくした総合芸術としての装飾経が誕生したのです。

当時の代表的なものとして,平家納経,久能寺経,中尊寺経,扇面古写経などが知られています。この時を境に,「経師四人を召して古麿がために法花経一部を写し奉らしむ」(『日本霊異記』―823)と平安前期にはまだ書写専門職であった経師は,「四巻経書き奉る紙、経師に打ち継がせ」(『宇治拾遺物語』1213-1219)とあるように,装潢手との境界が曖昧になりました。

つまり,掛物・経巻・巻子本・綴じ本の表装のほか色紙などの詠草料紙づくり,さらには衝立・屏風・唐紙障子(ふすま)の仕立てに至るまで,およそ紙と裂と糊を用いてつくるすべてが経師の仕事とされたのでした。

3. 裱褙師の出現

3. 裱褙 (ひょうほえ) 師の出現

平家の隆盛の頃から鎌倉時代にかけて,宋,元の文化が遣唐使の廃止以来,再び日本へと流入すると,宋の版経(摺経/すりきょう)が渡来し,経師は木版印刷を手がけるようになりました。

『東北院職人歌合』(1214)には、経師として「ちびはてて文字かたもなきすりかたぎこよひの月ぞあらはかさばや」「おもひあまり露の夜すがらうつかみのおとにたてゝも人をこはばや」(十二番本)などの一節がみられます。“すりかたぎ”とは版木のこと,“打つ紙”とは紙を木槌で打ちととのえることを意味します。

以上のことから,印刷や料紙加工が経師職の特色であったと考えられますが,この経師から,最初に分立したのが唐紙師でした。「唐紙(からかみ)」とは,平安初期に遣唐使や僧が持ち帰った中国の模様紙のことで,衝立・屏風の上張りや詠草料紙として珍重されました。

版木を用いた国産の唐紙が作られるようになった鎌倉時代には,襖障子に唐紙を張ることが盛んになりました。『庭訓往来』(1334)等にも“唐紙師”の名称が見られ,それらには唐紙づくりと襖張りを兼ねていたことが記されています。

宋との交流は経師職の分化に大きな影響を与えます。なかでも禅宗においては,弟子達に,伝法の具として祖師や高僧の肖像画(頂相)や墨蹟を与えました。頂相(※1)を仏堂に掛ける掛眞や詩画軸についても,掛物や額装の発達を促しました。

(※1)頂相/ちんぞう…禅宗の僧侶の肖像画や彫刻のこと。

同じ頃,書画の品等を定め,これに準じて表装の式を定めるという,宋で確立された表具の式も伝来しました。また表具を意味する“裱褙(ひょうほえ)”という宋音の名称もこのときに伝わり,室町時代に編纂された『節用集(文明本)』(1444-1487)には「表補絵(ヘウホウエ)、画飾也、或は表背衣を作る」と記されています。

この頃から,かつての装潢手は経師と袂を分かち,掛物表具の専門職として独自の道を歩むことになりました。

4. 掛物と茶の湯

4. 掛物と茶の湯

掛物表具の発達は茶の湯と切っても切れない関係にあります。

臨済宗の開祖・栄西禅師が持ち帰った茶の実は,後に「茶道」という文化を生み出しますが,当初,茶は抹茶だけで修行僧の眠気さましに用いられました。禅林での茶礼として儀式化されるに至るのは,曹洞宗の開祖・道元や臨済宗の大応国師らによって作法が伝えられてからのことです。

なかでも宋から伝わった「闘茶(とうちゃ)」は鎌倉や南北朝の武士の間でたちまち流行し,町人階級の「雲脚茶会」(安物の茶を使うので泡がすぐ消えてしまう)に至るまで盛んに行われるようになります。

「闘茶」とは,寄り合った人々が数服の茶を飲み,本非(栂尾産を本茶とし他産地を非茶とする)をあて,得点によって賭物(景品)を得るという遊技。十服茶、五十服茶、百服茶とも呼ばれました。

「闘茶」は文芸的な寄合の施設である二階建ての会所において行われ,階下を客殿,二階を喫茶之亭と称しました。喫茶之亭では、正面に屏風を立てて三幅対の唐絵を掛け,中央の画幅の前に卓を据えて三具足(花瓶、香炉、燭台)を飾りました。室内の三隅には机を置いて点心(軽食)や菓子(果物)賭物をのせておきます。

闘茶会では唐絵の掛物、唐物の茶器を用いることが決まりで,掛物は三幅対だけでなく,至る所に衝立を置いて数幅の唐絵を掛け亭主の財力を誇示しました。

5. 大和表具の成立

5. 大和表具の成立

これまで礼拝の対象から室礼へと変遷した掛物が,絵画として鑑賞されるようになるのは,北山文化を開花させた足利義満(1358-1408)のとき。明との貿易で宋・元・明の書画や器物が大量に輸入され,茶寄合の掛物にも仏画や頂相の他,山水・花木・鳥獣等,新しい画幅が次々と加わっていきました。

表具の割り出し寸法については,当時,定式化・固定化されておらず,各部が自由な寸法で仕立てられていました。ちなみに,義満は,上下,中縁に金地金襴を好んで使用していました。

こうして掛物が芸術として鑑賞され始めると,日常的に飾る空間が必要となります。「床の間」は,まさに掛物のために生みだされた空間といえます。「床の間」は,当初,「押板」と呼ばれ、幅が広く(一間から三間)奥行きは浅く(一・五尺),下に厚い板を敷き,畳寄せとの間にごく低い壁を設けました。現在のように奥行きのある床の間は,茶室の成立以後と考えられています。

押板の飾りは,四幅対の掛物の場合は三具足をのけ香炉か花瓶を一つ置き,一間押板には二幅対を掛けます。小絵・横絵は然るべきところに違い棚を置きその上に掛け,大きな八景の八福等は押板がなければ置き押板をおいて掛けます(能阿弥/相阿弥『君台観左右帳記』1476,1511)

押板の壁は豪壮華麗な障壁画や絢爛たる金碧画があり,白無地の張壁であったとしても二メートル〜五メートル余のものさえある広大な空間です。複数の掛物や東山御物にみるような総金襴表具であってこそ,書院の押板飾りにふさわしいものであったといえます。

そして東山文化が花開いた義政(1435-1490)の時代には,日本の表装式の祖といわれる能阿弥・相阿弥が登場しました。能阿弥(真能。1390-1494?),その子芸阿弥(真芸),孫の相阿弥(真相/?― 1525)と三代にわたって義政の同朋(※1)を務め,「三阿弥」と称せられています。

(※1)同朋…将軍の側近で芸能関係の仕事に携わり,阿弥号を名乗った。

「三阿弥」は,将軍家の唐絵や唐物の鑑定,保管,出納,取り次ぎ,座敷飾をつかさどる唐物奉行をつとめました。なかでも,能阿弥は東山御物の選定,書院の台子飾の制定や掛物の外題飾を始め,相阿弥はこれらを引き継いで『御飾記』(1523)を著し,書院の茶,殿中の茶を成立させ「真」「行」「草」三体の表装式を確立しました。表具の割り出し寸法を,一文字の上が一寸の場合は下を五分というように,上下を二分割にする古法も,能阿弥・相阿弥によって定まり,この古法が利休に伝わり「利休の一入表具」として知られるようになりました。

宋式を基礎にした大和表具が,ここに成立します。

6. 侘び表具と美意識

6. 侘び表具と美意識

掛物表具が,今日のような日本独特の美意識の表現へと高まったのは,侘び茶との出逢いです。

大徳寺の一休宗純のもとで参禅した茶道の始祖・村田珠光(1422-1502)は,能阿弥を通じて義政の同朋衆に加入。ここで殿中茶を極め,唐物偏重に批判を抱き和物への道を拓きます。

書の掛物の始まりも,一休から与えられた圜悟(えんご/宗代禅林の巨匠)の墨蹟を小座敷に掛けて“茶禅一味”を追求したことに由来します。この表具は珠光が能阿弥に指示し,「上下=媚茶,中縁・風帯=薄浅黄,露=濃浅黄糸,一文字はなし,塗り撥軸」としたもので,布は平絹の黄絹で侘び表具の典型とされています。

珠光表具で特筆すべき特徴は中縁に緞子を用いはじめたことにあり,後年,利休は「これを見ずば茶人に非ず」とまでいい,古田織部は「この掛物が千貫の値とすれば九百九拾貫は表具の値打ち」と言い切っています。

そんな珠光の精神を受けついだ武野紹鷗(1502-1555)は,歌道を通じて茶道に至り,侘びの境地を求めて四畳半の草庵茶室をつくりました。ここに伝統文化である和歌の世界が茶の湯にとり入れられ、日本国有の侘び茶の確立をみます。

さらに侘び茶の世界は,かの千利休(1522-1591)によって大成されます。一畳半や二畳という狭い草庵茶室をつくり,あら壁の床の間に,軸と花以外の装飾はすべて排し「和敬静寂」の境地を追求したのです。

利休は記します。「掛物ハ第一ノ設ナリ。諸(書)院ノ飾此絵様ヲ心トシテ取合ス」(『利休居士改正書院飾秘事』)。「掛物ほど第一の道具はなし。客、亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也」(『南方録』)と。さらには,名物の掛物のためには床の間の天井の高さを変えることを説き,掛物の下を一尺二,三寸あけるとし,墨蹟は一行物を良しとし,「上下および中縁とも薄浅黄のシケ絹,一文字・風帯はホソヅルの古金襴で色は紺地,軸は象牙にしろ唐木にしろ撥軸」(『望月集』)という表具様式を好みました。表具が立派すぎては肝心の本紙に集中する妨げになると戒め,紙表具を試みたのも利休でした。

掛物表具は侘び茶の世界で洗練され,数寄者(茶人)の美意識の結晶ともいうべき好み表具を産み出しました。

7. 多様化する表具

7. 多様化する表具

侘び茶の発展は掛物に新たなバリエーションを生み出しました。絵画に代わり墨蹟や古筆切れ,歌切れ(古い経文や歌集の一部を切り離したもの),茶人の消息(書簡)や文,色紙,短冊,懐紙などが好まれるようになり,ついには「炉は一行、春は懐紙に、夏短冊、秋は文」と茶席の掛物が出揃います。

江戸時代に入り,古田織部,小堀遠州,片桐石州などの武家茶人は,将軍家や大名の茶道師範を勤めて大名茶の隆盛を導き,それぞれ個性豊かな好み表具を展開させました。

千家では三代目の宗旦(1578-1658)が,侘びに徹して利休の茶統を京都に根付かせ三千家の礎を築きます。

宮廷においても,後水尾院のもとで茶の湯が盛んになり「公家表具」が現れました。

織部や石州,藤林宗源などに一致した考え方。それは「表具は本紙の衣装」であり,本紙の筆者の身分を吟味してそれにふさわしい衣装(表具裂)を着せることにありました。たとえば,宸翰(しんかん/天皇の墨蹟)は白地の金襴または金紗を必ず用いる白色表具。僧侶や武家の表具は金紗・銀紗・金襴・印金。茶人の表具は無地の平絹・緞子・絓・具引きの紙。公家の表具は錦・唐縫・金緞・モール…。身分によって重要視される裂が異なっているのも,そうした先達の考え方の反映であったことでしょう。

また江戸時代初期には心越禅師によって明の表具式が伝わり,従来の大和仕立に対して明朝仕立が確立し,茶人や文人の間にもてはやされました。

8. 現代に息づく京表具

8. 現代に息づく京表具


現代アートと伝統的表具のコラボレーション
(高台寺/2009年)


掛物表具の需要は茶道の隆盛と不可分の関係にあります。

「表具」という言葉は天正年間(1573-1592)から使われはじめ,「表具屋」という名称は文禄二年(1593)の『神龍院梵舜日記』に初見されます。

職分にかんしては『雍州府誌』(ようしゅうふし/黒川道祐,1684)の表具の条に「書画縦横ノ装潢,其ノ巻末ニ緒ヲ著ケ,巻本ニ牙軸ヲ著ケ,竪ニ之ヲ巻キ巻末ノ緒ヲ以テ之ヲ結ブ,是ヲ表具ト謂フ。」とあり,横に長い書画は巻物といい経師屋がこれを製作しました。表具と巻物はタテ横の違いに過ぎませんが「表具師ノ巻物ハ用ニ堪ヘズ、経師屋ノ表具又宜シカラズ」と記されています。

『京羽二重』(1685)によれば,宗有ほか三名の表具師が御所近くに住み,八名の表補衣師が六条から七条界わいに集まっていました。おそらく寺院関係の仏画表具を昔ながらの表補絵と呼ぶことが,この時代にも続いていたと考えられます。

幕末の『守貞漫稿』(もりさだまんこう/1837-1867)には「京坂に云表具師、江戸に云経師を雇ひて障子を張り襖を作る」と書かれた一節があり,表具師,経師,唐紙師の境界は再び曖昧になったようにも推察されます。

東京遷都の明治時代に入り,欧米文化崇拝の風潮のなか,大名茶の衰退に加え日本の伝統文化は沈滞期を迎えます。しかしながら,明治後期,京の町衆や新興の実業家の間で茶道や能が息を吹き返し,掛物や古い道具類がもてはやされるようになりました。

西陣では表装専門の裂が生産されるようになり,京表具師は同業組合を設立して競技会を催すなど,技術の改良発展に取り組みました。また,明治の数寄者益田鈍翁(1847-1938)にいたっては,絵巻物や歌集,屏風絵,因果経などを分断して掛物に用い,茶席の新しい飾りを考案します。

洋風建築への移行は本紙にも変化をもたらし縦が長めになり,昭和に入ってからの華道隆盛は横物表具の発達を促すなど,表具の世界にも新時代の息吹が続々と芽生えました。

伝統工芸としての表具技術も見直され,昭和四二年には表具技能士の検定制度が確立されました。その後,五四年からは「紙・布・のり」を使用して作りあげる作業を「表装」と総称し,表装技能士として選択科目に従い「表具」と「壁装」に区分することになりました。

ちなみに,京都府では,「表具師」は掛軸の表装,屏風・襖・障子の仕立て,「経師」は色紙・短冊・和本製造と区別しています。

平安時代,京の都では紙屋川で官製の和紙が漉かれはじめ,その後も諸国の良紙が集中し,唐紙・色紙・短冊の主産地であり,西陣織の最高の表具裂,屏風などの漆塗椽,金具細工に至る優秀な表具材料に恵まれてきました。温度が高く風も弱いという風土的条件も,精度の高い表具を仕上げるのに役立ったともいえます。

また京都は選りすぐりの工人や数寄者が集まる都であり,表具そのものは歴史のなかで京都を中心に発展しました。

そんな「京表具」の技術は現在も全国の指導的な地位にあり,仏画表具をはじめ高級な軸装や額装,文化財など古美術の修復に高い水準を誇っています。